愛新覚羅載ホウとは?

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内, 検索
 | 本来の表記は「愛新覚羅載灃」です。この記事に付けられた題名は記事名の制約から不正確なものとなっています。
清朝の正装をまとった醇親王 載灃

愛新覚羅 載灃(あいしんかくら さいほう、1883年2月12日 - 1951年2月3日)は、皇族。第2代醇親王である。醇親王奕譞の五男で、光緒帝の弟。清朝第12代(最後の)皇帝宣統帝とその弟・溥傑の実父に当たる。大英帝国ロイヤル・ヴィクトリア勲章受勲者。

事跡

父の死後、世襲を許されて醇親王を襲封した。父に続いて西太后の信任を受け、義和団の乱後にはドイツ公使殺害に対する謝罪使としてドイツへ派遣される。立憲君主制の創立に携わり、兄・光緒帝が1908年に死去し、溥儀が宣統帝として即位すると監国摂政王に就任して軍国の権限を掌握し、兄・光緒帝を裏切って戊戌変法を潰した袁世凱を失脚させた。また、軍機処にかわる内閣を組閣したが、辛亥革命が始まると隆裕太后(光緒皇后)の命令により袁世凱に全権を譲らされた。

清朝滅亡後も、清朝皇帝の尊号を保持しつつ紫禁城に住む事を許された溥儀の後見役となった。だが、1932年に溥儀が日本関東軍によって満州国執政~皇帝に担ぎ出された時には、前途を危ぶんでこれに反対し、そのまま北京市内の邸宅に居住して、満州国とは一線を画した。

このため、溥儀と異なり対日戦勝後も漢奸とはされず、中国共産党政権下でも引退生活者としての生活が保障され、北京でその生涯を閉じている。墓所は北京西郊の福田公墓内。

かつての邸宅(醇王府)は、西側の庭園(明珠花園)がのちに宋慶齢の公邸となり、現在、「宋慶齢故居」として一般公開されている。東側の邸宅部分は国家宗教事務局、厩舎と馬場は北京市第二聾唖学校に転用されているが、清朝の大規模皇族邸がほぼ完全な形で残されている稀少な例となっている。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
出典:wikipedia
2012/05/20 01:03

愛新覚羅載ホウスレッド一覧

・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「愛新覚羅載ホウ」のスレッドを作成する
このページ
友達に教える
URLをコピー
MOVIE WIKIに戻る
お問い合せ
(C)MOVIE WIKI